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1977 : 同好会から部活動へ
1977年(昭和52年)6月の生徒総会にてバドミントン部の設立が賛成多数で承認され、ここに川越高等学校バドミントン部の歴史がスタートしました。
それまで約10年余にわたるバドミントン愛好会・バドミントン同好会の時代があり、メンバーは英語部・郷土部・放送部などに在籍しながら、活動を続け西部地区大会などにも出場していました。部となったあと、愛好会時代のOBの方が来てくださりこうした活動が実を結んだことをたいへん喜んでくださいました。
ただ、バドミントン部の設立も決して平坦な道のりではありませんでした。
当時、川高はバレーボール部が強く、ほかにもバスケット部・体操部と、体育館の2階フロアを使う部活はいっぱいで、バドミントンが使える余地などなく、バドミントン同好会は3階(正式には中2階)の踊り場で活動をしていました。
これらの部活にバドミントンの部昇格を打診しても、色よい返事はなく、当時の部設立に関わった山田一博先輩・菅野浩之先輩・小川永時先輩(いずれも第1代)はたいへん苦労をされたときいています。
懸案であった顧問も引き受け手がみつかり、何とか生徒総会への提案となりました。当時1年生は賛成を得るためクラスメートを「仙台屋のチェリオ」で買収したものです。
無事に承認されたものの、2階フロアは使用しないことを約束させられ、ある先生からは、弱かったらすぐに取り消すとまでいわれました。
それでも、当時3年生が4人・2年生が2人・1年生が5人、小さな部活動が始まりました。みな仮住まいであった各部を辞め、胸を張ってオープンにバドミントンができる喜びを感じたものです。なお、小川永時先輩のように放送部も部長になってしまい、2足のわらじをはきつづけた方もおられました。
川高の体育館は当時から、1階に剣道場・柔道場・卓球場をかまえ、2階はバレー・バスケットコート2面(バドミントン6面)をとれるフロアがありました。その2階に突出し部分(ギャラリー)がバドミントンの聖地「3階」でした。当然、天井に近いためロークリア・ドリブンクリアがたいへん「お上手」になりました。また、勢いよく下がると階段部分の奈落に落ちるという環境でした。
3階のスペースは不思議とバドミントンコート1面と相似形でしたので(実測は怖くてしたことがありません)、まさに床全面がコートで、壁に当るとアウトでした。そのため多くのラケットがこの壁の犠牲になりました。当初は木が主流の時代でしたので復元・矯正が不可能でした。まさに体でコートの広さを覚えました。もちろんポールなど買うお金も、建てるスペースも有りませんでしたのでモップの柄を途中で切ったものを窓枠にはさみつけ、そこにネットをしばりつけて使用していました。床面にはタイルが張られていましたが、「激しい?・耐性を超えるフットワーク」により常時はがれ、またボンドで貼るの繰り返しでした。
体育館フロア側には手すりとネットがはってありましたが、ネットを越えてシャトルが2階に落ちることもしばしばで、ネットの向こう側に落ちていくシャトルをつかまえる反射神経も身につきました。
またラリーの最中にシャトルが天井の梁にひっかかったりすることも、しばしばでそれをとるために、モップをつなぎ合わせ先端に針金をつけてひっかけてとる「ネッシー」が使われました。年に数度は天井にのぼってシャトル集めをしました。身の軽い道坂 剛さん(第3代)などはたいそう上手なものでした。
また、当初2年ほどは部室などもらえませんでしたので、ギャラリーの一部に机を持込み、マット(どこからもってきたかは不明)をひいて部室代わりに使っていました。とにかく校舎中を物色し、姿見(鏡)も谷間の旧校舎から強奪したり、悪事の限りをつくしたものです。
先輩後輩ではありましたが、同好会の仲間的な意識も強く、とにかく和気藹々とした笑いの絶えない楽しい部活でした。部活という市民権を得て、何から何まで初めてのことばかりでした。
5月の大会で山田一博先輩・大澤 誠先輩・菅野浩之先輩・小川永時先輩の4名の第1代の3年生が引退されました。試合が終わって当時顧問の「トラ」先生が、これでみんなでなんか食べろとお金をくれ(たしか2,000円)、みんなで新所沢のカントリーラーメンにいったのを覚えています。
1978 : 本格的な部活動へ
2代目のキャプテンは伊藤一彦先輩になりました。とにかく、一番バドミントンがうまく、1年生の川越市民大会のシングルスで準優勝したほどでした。夏休みに入ると伊藤さんに連れられて、入間の豊岡高校に練習にいきました。当時豊岡高校は地区の強豪でしたので、練習方法やショットの打ち方などたくさんのことを学びました。あとで伊藤さんに聞くと、1年生のためにフットワークとかも教わったそうです。練習の仕方も自分たちで学びながら、少しずつ腕を上げ始めた時期でした。
やがて初めての夏合宿を迎えました。学校の合宿所をかりての3泊4日(?)。なぜか、夜は3年生も来られ、誰もいないプールで泳いで騒いで怒られたりしました。それと、はじめて2階のフロアで夜練習をしました。安いコートテープを貼り終わったらまた使えるように丁寧にはがし、巻きつけておいたものです。体育館のコートってこんなに広くて・高くて・まぶしいところなのだとわかりました。
また秋の文化祭には「かき氷」をやりました。主だったものはすでにほかの部活がやっていましたので、天候が悪ければボツになることを覚悟して出店しました。バドミントンは結構お金がかかります。とくにシャトル代は部の僅かな予算ではとても賄えません。このころはよく練習球のラベルを試合球のものに張り替えて試合に使っていました。また意味もなく地区大会・県大会を歩き回り、落ちているシャトルを拾って(ゲットして)もっていったシャトル以上を持ち帰ることを旨としていました(ああなんて悪いことを・・・・)。その意味で文化祭は一攫千金のチャンスだったのです。まだ使っているかき氷機を裏の食堂からかり、前日から試食会と称して3年生もいっしょに練習そっちのけで準備しました。その執念の甲斐あってか文化祭はみごとに晴れ、バドミントン部の会計は大いに潤ったのでした。
1979 : 強い部活動へ・・・
やがて、バドミントンの技術・戦術的な基礎を作られた伊藤一彦・伊東久男両先輩(第2代)が秋に引退され、一足早くキャプテンは第3代の石川一浩君になりました。当時から、バドミントン部はよく練習していました。2階のフロアの空いている早朝・土・日など、冬休みは元旦から練習したこともありました。
部活を維持するためにも、勝たなければ/強くならなければというプレッシャーもありましたが、なかなか結果に結びつきませんでした。やがて春には、はじめてバドミントン部として初めての「新入部員」を迎えました。確か20名近くいたでしょうか。バドミントン部はたちまち大所帯になりました。これまでの同好会的な雰囲気とは違い、戸惑いながら、新入生とも喧嘩しながら少しずつ部活らしくなっていったように思います。夏休みは初めて他校との練習試合もしたりしました。
こうして迎えた秋の新人戦。第1ダブルスの石川一浩・堀 貴男組は西部地区のダブルスで見事優勝を果たしました。さらに、川越市民大会では初めて団体優勝をすることができました。こうしてバドミントン部はようやく他の運動部からも認められる存在になりました。そのおかげでか(はたまた当時から生徒会役員を兼務していた道坂くんの政治力か)バドミントン部は部室をもらうことができました。
このころから、石川キャプテンの指導のもと、練習はさらに激しさを増し、昼休みは自主練といいながら、伊佐沼までのランニングをしたり、練習中に「スパット(足に巻くおもり)」をつけてフットワークを鍛えるなど「偏執的」な世界へと傾いていきました。春のインハイ予選は、団体は県大会決めで地区の古豪であった玉川工業に惜しくも敗れたものの、個人では石川・堀組に続き、道坂・仲組もベスト8に進み県大会に進むことができました。
この県大会までの準備期間に、初めて他地区の学校から練習試合を申し込まれ、当時、新進気鋭の越谷南高校とも戦いました。初めて他地区のレベルに接することができました。しかしながら、県大会では結果を出すことはできず、引退を迎えました。
思えばこの、1・2・3代は同好会の楽しさと、部活としての楽しさの、質の違う楽しさを2倍味わうことができた幸せな世代といえるかもしれません。その余韻からか、今でも夏のOB会には異常に高い出席率を誇っておりますし、それ以外にも年1~2回は顔をあわせ、「決して増えることはない」思い出話に花を咲かせています。
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